家づくりの想い

内保製材の歴史

内保製材の創業は昭和25年。木の魅力に惹き込まれたじいちゃんが、
製材業を生業としたことに始まります。
もともとじいちゃんは、農業の傍ら、綿打ち業や米つき業などを営んでいました。
木を扱い始めたのは比較的遅く、じいちゃんが40歳になった頃でした。
「いつのまにか木の魅力に惹き込まれていた」
当時、じいちゃんはそう語っていたそうです。
当社がある地域は、古くから豊かな森林に恵まれており、
町内には天領・谷口杉の美しい森があります。
当初は知人の手伝いとして製材業に携わり始めたじいちゃんでしたが、
そうした見事な木々に触れる中で「木を活かす仕事がしたい」という
志を持つようになっていったのです。
とはいってもじいちゃんに製材の知識はありませんでしたから、
最初はあちこちに出かけていって教えを請い、
製材技術を身につけていったそうです。
そのうちに、息子たちのうち2人がじいちゃんを手伝うようになり、
農業の傍ら、3人で地域の大工さんたちに木材を販売するようになりました。


初代/川瀬憲三(じいちゃん)

2代目として内保製材を継いだのは、父でした。
治一郎は中学を卒業するとすぐにじいちゃんの仕事を手伝うようになり、
同じように製材の道に進んだ弟とともに、
事業を少しずつ大きくしていきました。
そんな2人を不運が見舞います。昭和44年春のことでした。
製材工場が火事に遭ったのです。幾棟かの工場と資材が灰となりました。
それまでの努力が一瞬にして灰になってしまったのです。
2人は言葉では言い表せないほど悔しい思いをしました。
焼け跡を前にした2人の胸には、悔しさと同時に、
火事の中で力を貸して下さった地域の方々に
「恩返しがしたい」という想いが芽生えていました。
「必ず内保製材を再建して、地域の役に立とう」そう誓って、
無心で働く日々が始まりました。
2人が徐々に工場を整備しながら仕事に励んでいた頃、
世の中は高度経済成長時代に突入しました。
都会はもちろん、田舎でも住宅建築ブームが起こりました。
この住宅建築ブームの中で、内保製材も住宅建築の請負へと進んでいきます。
地域の人たちから直接「家を建ててほしい」 というお話をいただくようになったのです。
2人に建築の知識はありません。けれども、
「地域の方が求めておられることには、なんとかして応えたい」
そんな想いから、住宅建築に取り組み始めました。
住宅建築は簡単ではありませでしたが、
2人は、材料である木材の豊富な知識を活かして、
地域の人に喜んでいただける家をコツコツとつくっていきました。
そして昭和60年、有限会社内保製材所となりました。
この頃には、建築請負が事業の中心になりつつありました。


当時の内保製材

当時の内保製材

平成8年、内保製材が住宅会社としての基盤を固めた頃、
現在の私と弟が会社へ戻ってきました。
それぞれが建築につながる業界で経験を積んだ上で、
家業に合流したのです。
バブル崩壊後のこの時代には、
住まい方の多様化が鮮明になってきていました。
人によって違う暮らしがある。だから、家に求められるものも
住まい手によって異なるのが当たり前。
住宅会社がそんなニーズに対応しなければならない時代がきていたのです。
内保製材も、「これまでのような家づくりでは通用しない」と
感じるようになっていました。
木材と建築の知識を得て新たに合流した2人は
「製材所であることを活かし、
木のよさをアピールできるような家づくりがしたい」と考えました。
木の家づくりとはなんだろう、住まい手に本当に喜ばれる家とはどんな家だろう、
内保製材の家づくりとはなんだろう・・・模索する日々が続きました。


幼い頃の社長(中央)、専務(右から2番目)、初代じいちゃん(右)

平成16年9月、組織を内保製材株式会社へと改め、
同時に3代目として、私が就任しました。
そして、「製材所を持つ工務店」という内保製材の強みを活かす家、
『感響の家』が生まれたのです。
この地に育ててもらったのだから、この地にあるものを活かしたい。
地域の木や素材を活かしたい。
この地域の人たちに支えられてきたのだから、
地域の人たちが大切にする暮らしを現代の家に活かしたい。
木のプロとして、木が本来持つ良さを最大限に活かした家をつくりたい。
地域の環境を守るために、循環可能な材料である木を活かしたい。
暮らしを通じて、住まい手の感性を育むお手伝いがしたい。
こうした想いを素材や材料、工法などに落とし込んで、
カタチにしたのが『感響の家』です。
私たちは、じいちゃんが惹かれた木の魅力を、
存分に引き出す家をつくります。
父らが誓った地域への貢献に、常に努めてまいります。
木のプロとして、家づくりのプロとして、
内保製材の家づくりをよりいっそう深化させ、
次の世代へとつなぎます。